2015年06月09日

更新  もしかしたら、「私」しかいない…?

「宇宙は存在しない」という信念?を持つ「In Deep」のokaさんが、最新の量子力学的実験の結果に関心を寄せ、紹介された記事です。
《特報》「人間によって観測」されるまでは「この世の現実は存在しない」ことを、オーストラリアの量子学研究チームが実験で確認


管理人は、中学生になったばかりの頃、「ひょっとして、私しかいない?」と思ったことはありますが、“存在がなくなる恐怖”というモノを感じたことはあまりありません(40代になって、てっきり自分が癌だと思って“一巻のオワリ”かな〜と思った時は、自分が「この世」から消えるということを想像しましたが、その時も「あの世」を信じていたので悲しみはあっても恐怖はありませんでした。病院に行って検査したら「胆石」と云われて一件落着しました(笑)が、結果を聞くまでの間、看護婦さん達が「このカルテ、つらいよね〜」などと話しながら通り過ぎていったり、なんだか見るもの聞くものすべてが「自分の癌」に向かって集約されていくような…(ちょうどその頃NHKの朝ドラの主人公も癌になってましたし…)見事に自分の思い込みにハマった日々でした。そして、病院に行って結論が出てようやく「現実」に戻ることができました。(“思った通りの現実”が現れてくる不思議と、最後の最後に、個人の“思い込みの世界”を一笑に付すような「現実」に救われたりしましたが、逆に「現実」の方がトンでもないことになったのは、阪神大震災。ウチの地域は比較的無事だったので、しばらくは知り合いがお風呂に入りに来たり「幸福の科学」の炊き出しを手伝ったり、少しは“救援活動”もしましたが、やはり衝撃的な被災体験でした。「大震災」はどうしようもない“容赦のない現実”でしたが、東北を襲った津波の容赦のなさを思えば、まだましだったと思えます。阪神・東北の時と違って、今はサヨク政権ではないので、安倍政権にはなんとか乗り切ってほしいと思いますが、サヨクの攻勢に負けるようでは、富士山も東京も危ない!と思います。)

中学生の頃「私が見ている世界は、もしかして私しか見ていない?」とか「私が見ていない処では、世界は突然終わっているんじゃないか?」とか「自分の見方次第で他人や世界が違って見えるとしたら、見方が変われば、世界はどんどん変わってしまうことになるな〜。」などと考え、大人になると「自分の“思い込みの世界”の中で生きている」ことを思い知らされたりもしましたが、こういう「主観的なコト」は宗教か哲学のごく一部で云われていることで、あまり大ぴらには云うことではありません。
今回の、物理学の最先端の見解が、ソノ世界?にいよいよ踏み込んできたので、やっとお墨付きをもらったような気持ちもあります。(科学者が「人間(存在)の不思議」を実証してくれるのは、ありがたいことです。)

In Deep」のokaさんは、「宇宙は存在しない」という信念をお持ちだそうですが、じゃあ何が「存在」するのでしょうか?

学者が何を追求しようとしまいと、例えすべてが幻だとしても、私が「私」であるかぎり「すべてはある」と信じたいと思います。(「この世」こそ、エンデの「果てしない物語」の中に出てくる“虚無に脅かされるファンタジエン”かもしれません。)

もちろん、こんなことを書いているmegamiyamaからして他人から見れば、ネット上の幻でしかありませんが、すべての人間が自分を「私」だと思って生きているのですから、「世界」が無数の「私」達によって支えられて「今此処に在る」ように見える?のは、“本当のコト”です(笑)

物理学がやっと“人間存在の不思議”に目覚めたといっても、(それを証明して見せたのは、さすがその道の専門家と云うべきですが)その内容は、其処ら辺の中学生でも考えているコト。

「本当のこと(真理)」は、学問になると小難しくなりますが、「証明」が小難しいだけで誰でも「やっぱりそうか!」と思い当たることでなければ「本当のこと(真理)」とは言えないですから、これを機に、これからの学問はますます人間にとって“本当のコト”になっていく気がします。

だからと云って、物理学が宗教に代わって「人の道」を“証明”したり、物理学者の「悟りの境地」が急に高まるとは思えませんが、物理学がやっと「人間の不思議」に足を踏み入れたことは、人類にとっても科学にとっても、大いなる転換点ではあります。

10年程前、若くして癌で亡くなった美貌の哲学者、池田晶子女史が云ってました。
「21世紀は、人類が存在の不思議に目覚める世紀になるだろう」
と。
(彼女の予言は当たったのかも知れません。無神論者だったようですが、「死は無い」と云って死後の生を肯定していたのは、さすが哲学者でした。)

みんな「私は私」と思って生きてますが、その“私”の中心に、誰にとっても唯一無二のとっておきの場所があることが、人間の証明だとmegamiyamaは思います。

誰のこころのど真ん中(中心)にも神に通じる場所が必ず「ある」。
それを信じることが、「神を信じる」ということであり、「一人ではない」ということであり、人類が心を一つにする“よすが”になるのではないでしょうか?

トンチンカンな物理学者が、早とちりして神になりかわろうとしても、神にとって変わろうという思いがすでに神の思いとはかけ離れているので、どんな存在も神にとって変わることなど、絶対できないようになっているのだと思われます。(「自分の中に神が宿る」と信じることと、「自分(人間)が神だ」と思うことは、似ているようで違います。神になり替わろうとして成れず、神を嫉妬するに至った人間の成れの果てが悪魔ですが、普通はそこまでいかなくても、神を信じないという時点ですでに自分を見失っていることにはなります。)

人間の尊厳は、すべての魂が無私なる神を宿していることに気づき、「すべての人間が神の宮である」と認めあってこそ成り立つもので、日本国民のように「占領憲法」と貧乏神「財務省」に牛耳られて喜んでいるようじゃ、尊厳も何もあったもんじゃないでしょう。

「私」という主観など必要ないとされてきた科学の世界で、観察する私がいなかったら「何も存在しない」ことが証明されたなら、確かなのは、私という主観だけ?ということになってしまいますが…

突然、合理的世界が壊れ、確かなものは何もない世界に放り出されたようなもんです。
が、だからこそ「実在のモノは何もない。」ではなく、「何が実在すると云えるのか」を物理学者さんには引き続き、追及して頂きたいモノです。

「天上天下唯我独尊」とおしゃったと云われるお釈迦様は、「すべては、諸行無常・諸法無我」と喝破され、この世が仮の世であることを最初に説かれましたが、人類が「存在の謎」に目覚めれば、間違いだらけの唯物論も時代遅れの宗教も、お払い箱になるのは、時間の問題でしょう。

それに代わって、新しい認識と新しい価値観が、浮かび上がってくるに違いないと思うのは、楽観的すぎるでしょうか?


http://oka-jp.seesaa.net/article/420222661.html
《特報》「人間によって観測」されるまでは「この世の現実は存在しない」ことを、オーストラリアの量子学研究チームが実験で確認




宇宙は、自身の存在を認識してくれる「人間の登場」を待ち続ける

Reality-Doesnt-Exist23.gif

Reality-Doesnt-Exist23.gif

▲ 2015年06月02日の NDTV より。



この世は人間が認識するまでは存在しない

今回ご紹介するニュースは最近の中でも、個人的に非常に大きなものです。

とても簡単に書けば、


1970年代に量子物理学者によって予測されていた説が、実験で証明された

というもので、その予測されていた説とは、


この世は、人間に観測(認識)されるまで存在しない

というものです。

つまり、「そのあたりにあるすべても宇宙も何もかもが、人間が認識してはじめて存在する」ということが証明された実験ということになります。

(何も存在しないという書き方は正しくなく、「原子はある」のですが、いわゆる私たちの生活での、一般的な認識での「存在」という意味にとらえていただくと幸いです)

この実験結果の論文が掲載されたのは、科学誌ネイチャーのオンライン版です。

Wheelers-delayed-choice-gedanken-experiment.gif


ただ、上のネイチャーの論文タイトルの「単一原子とホイーラーの遅延選択思考実験(ゲダンケン・エクスペリメント)」というのを見ただけでもおわかりのように、今回は内容は本当に難しくて、これを紹介していた報道記事をご紹介しようと思うのですが、何度読んでも意味があまりわかりません。

本当は昨日、今回の記事をアップするつもりでしたが、翻訳が全然できなくて今にいたります。

まあ、一応翻訳したという程度で、内容はおそらくは、物理学的にはまったく間違っていると思いますが、その内容を理解するために、いくつか読みましたサイトをまずご紹介したいと思います。

まず、今回の実験の名称は、すでに 1978年に理論付けされていまして、

「ホイーラーの遅延選択実験」

という、ジョン・ホイーラーという物理学者が提唱したものです。

このジョン・ホイーラーという人は、

ジョン・ホイーラー - Wikipedia

アルベルト・アインシュタインの共同研究者として、統一場理論の構築に取り組んだ。そして、一般相対性理論、量子重力理論の理論研究で多くの足跡を残した。

1960年代には、中性子星と重力崩壊の理論的分析を行ない、相対論的天体物理学の先駆者となった。

宇宙の波動関数を記述するホイーラー・ドウィット方程式は、量子重力研究の先駆的成果の一つである。また、ワームホール(1957年)や、ブラックホール(1967年)の命名者でもある。

と、いろいろとしていた方のようですが、この経歴を見る限り、量子学の足がかりを作った一人であるようです。


John-Wheeler.jpg


ジョン・ホイーラー( 1911年 - 2008年)

そして、この物理学者が 1978年に「この実験で、あることが証明されるはずだ」と予測した実験が「ホイーラーの遅延選択実験」というもので、この実験で証明されることは、


「この世は人間に記録(観測)されるまでは存在しない」


ということだというのです。

これに関しては、ホィーラーの遅延選択実験というページに、理論物理学者で、早稲田大学名誉教授の並木美喜さんという方が記した『量子力学入門』という書籍の内容が記されています。

実験の内容そのものに関しては、その説明にあります以下の記述のようなもので、とにかく、さっぱりわかりません。

da-db.gif



実験(a)では、M1によって二つに分けられた光パルスが通路AとBを通って別々に検出器DAとDBに導かれる。平均光子数一個(以下)のパルスごとの実験だから、DAが光子を検出すれば、DBが光子を捕捉することはない。


という例を見ましてもわかるように、私たちにはまったくわからないといっていいものです。

ですので、実験の内容については省略しまして、その実験の結果として、その後、どんなことが導かれたかということを、並木美喜さんの記述から抜粋させていただきます。


理解されている方は、下の本を実際にお読みになった方がいいのかもしれません。

namiki.jpg


並木美喜著『量子力学入門』(1992年)より

実験の方は1986年頃アメリカとドイツで実行され、ホィーラーの予想通りの結果が出た。

そこで彼は強調する。「”記録”されるまでは”現象”はない」と。

”現象”を「粒子」と「波動」に局限するかぎり、おそらくは彼は正しいだろう。だが、「現象」という言葉を最大限に拡張解釈し、何段階か飛躍してこの言明を言い換えればどうなるか?

あるいは「宇宙は人間の登場と人間による認知を待っていた」という断言すら生まれるかも知れない。

なぜならば、宇宙という「現象」は人間が観測して≪記録≫するまでは存在しないのだから!

この断言を許すと、人間は森羅万象を決定する最高位の存在になってしまう。

話としては大層面白い。決定論的な古典的自然観とはあまりにも違う。

宇宙は人間に合わせて、または人間のためにできているという考えを「人間原理」ということにすれば、これは「人間原理」の極端な姿だ。

読者の皆さんはどのように受け取られるだろうか?



このように、並木名誉教授の文体は、「自分で書きながら、その内容に驚いている」ことを感じさせるものです。

確かに、上の文章にあります様々な記述、

> 宇宙は人間の登場と人間による認知を待っていた

> 人間は森羅万象を決定する最高位の存在になってしまう

> 宇宙は人間に合わせて、または人間のためにできている

という考え方は、現在の自然科学とは相容れないものがあるかもしれません。

しかし、これは、このブログで、過去何度も出てきた概念でもあります。
だからこそ、大きなニュースでもあります。


宇宙は人間の登場を待っていた


かつて、何度か引用させていただいた私宛てのメールがあります。

中世の薔薇十字の理論の実践者であり、また、シュタイナーの研究者でもあった「ねるさん」という方が、 2011年 3月 11日の震災の直後に私に送ってくれたメールです。

それらのことは、過去記事、

・量子物理学者が証明しようとする「死後の世界と来世」。そして「宇宙は人間の認識がなくては存在しない」こと
 2013年11月19日

の中など、過去何度か引用させていただきましたが、再度引用させていただきます。

まさに、今回の実験で証明されたことそのものの概念が書かれています。
最初に掲載したのは震災6日後の「人類が獲得した「予知できない」能力」という記事でした。




現代人の知性とその可能性

人間の知性はいまや他の存在たちにとっての希望です。
自然のなかに生きていた神々はもういません。

自然は、もはや自動的に運行する機械に過ぎないのです。科学によって自然を観察しても生命は見つかりません。自分を探してのぞき込んでも、見つかるのはただの影にすぎません。

今や人類はそれ以前とは異なります。神々は人類に運命を委ねたからです。宇宙の知性は、ある時期から人間の側に移行しました。以前のように自然を探すことによって見いだせるのは死んでしまった法則だけです。

人間は、自分が宇宙の意志であるという事実を自覚するとき、やっと宇宙と自分自身の本当の姿を見つけます。それは神々が与えてくれるものではなく、人間の判断行為の中にのみ見いだされるものです。

宇宙は最終的な結論として人間を選びました。

この奇跡の只中にいる人間自身がこのことに気づいていません。空に輝く物質的な太陽とおなじ力が人間の内部にも働いているという事実をです。自分自身の知性がこれから大きく変容する可能性があることに人間は気づかなければなりません。宇宙の命運が掛かっていることを知らなくてはなりません。

過去の光は人間の内部に移行しました。自分の思考が宇宙の意志であることを自覚すると、想像をはるかに超えた数の存在たちが闇から救出されます。動物たちは大気圏の外から人類を見守ってくれます。植物たちはこの地上で人類を助けてくれます。鉱物たちは自らを思考の材料として提供してくれるはずです。

だから宇宙に生きる全ての存在たちのために、人間は、今、行動しなければなりません。




ここまでです。

2011年の震災直後は、私も考えが大きく変化した時でした。

震災3日目に書きました、

・決意の涙 : 東京 DAY3
 2011年03月13日

という記事に、圧倒される自然災害を目の当たりにして、私は以下のようなことを書いています。




2011年03月13日の In Deep 記事より

宇宙がどのように生まれたのかは今はわかっていませんが、中世の神秘学などの言葉を借りると、順番としては、

・ことば
・存在
・認識

というように来たように思います。

今、私たちが「宇宙」とか「存在」と考えているものは、実は我々が認識しているために存在しています。

これは難しい話ではないのですよ。

・見ないと見えない
・聞かないと聞こえない

というようにいくと、

・認識しないと存在しない

という流れにはなるように思います。

埴谷雄高さんが言っていた「存在の革命」という言葉を、私なりに究極的な革命として、書けば、

・認識の否定

というものがあると思います。

とても間違ったことであることはわかりますが、ただ単に「宇宙の圧倒」に我々がいつまでも引きずられているわけにはいかない。



ということを書いていまして、今このように読み返してみるとわかりづらいですが、これは何を書いているかといいますと、


私たち人間は宇宙の存在を消すこともできる

ということに震災直後に気づいたことを、やんわり遠回しに書いています。

3.11の理由を宇宙が明確にしない限り、私たちは宇宙の存在を消し去ることができると。

地球も宇宙も消えて、意識と言葉(あるいは音)だけがこの世に残る。

創世のやり直し。

その後も、この 2011年は、「この世は存在しているのかいないのか」ということについて考えることが多かったです。

・DNAの存在から見れば「私たちは実際には存在していない」かもしれない
 2011年06月14日

という記事、あるいは、クレアなひとときでも、

・覚醒とは何か(2) 意志のある場所とその消滅
 クレアなひととき 2011年11月01日

・覚醒とは何か(3) 人類に芽生えたかすかな希望[同一の存在の可能性に向けて]
 クレアなひととき 2011年11月02日

などで、繰り返し、


「宇宙に対しての人類の認識」が、「宇宙が存在するため」の唯一の拠り所かもしれない

ということを書いています。

この 2011年の頃は、何というのか無意識で記事を書いている時も多くて、読み返すまでは覚えていないようなものが多いのですが、少なくとも、そのようなことをどこかで思い続けていたようです。

あるいは、ごく最近の記事、

・「恐怖からの解放」についてのメモ(2):現在の地球の人間は何によってコントロールされているのか
 2015年05月25日

などで、自称プレアデスの人が言う、

目、耳、鼻、口、感触は”現実を欺くもの”です。あなた方はこれらの感覚によって現実を知覚していると考えますが、実際には、これらの感覚は現実に対するあなた方の知覚を制限しています。

という内容は、私たちの宇宙に対しての感覚的な把握が、目、耳、鼻、口、感触の「以外」にもあることを示していて、人間と宇宙の関わりについては、人間の方から積極的に変化させることができることを現してもいるような気もします。

最近、書くことのある「肯定的な態度」にしても、それをおこなうのは自分自身であって、つまり、

「自分が変わって、初めて、周囲の風景が変わる」

ということを端的に物語っている気もします。

あるいは、考え方次第で、この世はとても美しいものでもあるし、あるいは、そうではないものであるということも、たとえば、フランス映画『美しき緑の星』などで語られていることでもあります。

この世のすべては不変に見えても、現実としては、人間の感情や認識で、どんどんと変化する。

それまで何も感じなかった対象がどんどん変化する。

まあ、 In Deep というブログそのものが、「この世は存在するのか」ということを、ひとつのテーマとして持っているものでもあります。

・30年目のエレキな春 : 精神圏へ移行する人類の覚醒後の姿を夢想させてくれた『弥次喜多 In Deep 』と作者への感謝
 2014年04月28日

という記事に書いたことがありますが、ブログの In Deep というタイトルは、しりあがり寿さんの痛快形而上アクション時代劇ギャグ漫画(どんなジャンルだ)である『弥次喜多 in DEEP』の印象からいただいたものです。

この漫画では、生きている弥次さん喜多さんが創造神へと変化し、ついには宇宙へと変化していく長い過程を経た後、ある一人の少年が、

「宇宙って存在しないのではないのか」

ということに気づき、それどころか、

「この世には実は何も存在していないのではないのか」

ということにも気づいてしまい、それでも少年は前へと歩いていくところで物語は終わります。

yajikita-in-deep2.gif


▲ この世には何も存在していないことに気づいた「千年ムスコ」という名前の少年。これに対して、「存在しない宇宙の象徴となっている弥次さん喜多さん」は少年に「そうだ」という旨を述べます。


そんなわけで、この「宇宙は存在しない」ということについては、自分自身の信念は強いままなのですが、今回のように、科学的実験で証明されるというのは、それはそれでひとつの大きなことだと思った次第です。

ここから報道記事ですが、先ほども書きましたように、実験内容はよくわかりませんですが、なるべく自分自身で理解しやすいように、かなり直訳とは遠いものとなっていますので、翻訳内容は参考程度にお考えいただけると幸いです。

特に、後半は自分で書いていても、何語を書いているのかわからないほどでした。



Reality-Doesnt-Exist23.gif

Quantum Experiment Confirms Reality Doesn't Exist Until Measured
NDTV 2015.06.02


観測されるまで現実は存在しないことを量子実験が確認


オーストラリアの科学者たちが、量子物理学での予測を証明するための有名なある実験を行い、その実験は成功した。

その予測とは「観測されるまで、現実は存在しない」というものだ。

オーストラリア国立大学( ANU )の物理学者たちは、ジョン・ホイーラーの遅延選択思考実験と呼ばれる実験を行った。それは粒子のように動く、あるいは、波動のように動く選択権を与えられている移動物体に関しての実験だ。

ホイーラーの実験は、その後、どの時点で物体が「それが波動か粒子か」を決定しているのかを問う。

常識的には、私たちがそれを観測する方法がどのようなものであろうと、その物体が波動のようなものか、粒子のようなものかということは、それぞれ最初から物体として独立していて、測定法と、その物体が何かということは無関係だといえる。

ところが、量子物理学者たちは、あなたたちが、その物体を波動の挙動(干渉)、として観測するか、あるいは、粒子の挙動(無干渉)として観測するかによって、その最終的な実際の観測記録が違ってくると予測してきた。

そして、この予測について、オーストラリア国立大学のチームが実験で証明することに成功したのだ。

オーストラリア国立大学の物理学工学研究所のアンドリュー・トラスコット( Andrew Truscott )准教授は、

「この実験は観測がすべてであることを証明しました。量子レベルでは、あなたがそれを見ていないのなら、それは存在しない、ということになります」

と述べる。

この実験の結果は、非常に小さなものに支配されているとする量子理論の妥当性を確認することになる。そして、この理論は、 LED 、レーザーおよびコンピュータチップ等の多くのテクノロジーの開発を可能にしてきたと研究者たちは言う。

オーストラリア国立大学のチームが成功した今回の実験は、ホイーラーがこの実験を提唱した 1978年には、実験を行うことがほぼ不可能と思われていた。

トラスコット准教授のチームの実験は、最初に「ボース=アインシュタイン凝縮」として知られる停止状態の中で、ヘリウム原子の集合体によって物体が補足され、それらは、最後の単一の原子が残るまで排出された。

単一の原子は、その後、対向伝搬レーザー光を介して落下した。これは、固体の格子が光を散乱するのと同じ方法での格子パターンを形成した。

その軌跡を再結合するために第二の光格子をランダムに加えると、これは、建設的に、あるいは、破壊的な干渉へとつながった。

第二の光格子が加えられなかった場合には、干渉は観察されなかった。それは、あたかも、原子が一つの軌跡のみを選択したかのようだった。しかし、原子が交差点を通過した後、格子が追加されたかどうかを決定する唯一の乱数が生成されたのだ。

トラスコット准教授は、「原子は特定の軌跡を取り、あるいは、将来の記録が原子の軌跡に影響を与えることを受け入れた、ということになります」と語る。

「原子は、AからBへと旅をしたのではないのです。彼らは、その旅の最後に、それらが波動か、あるいは粒子か、どちらかの振る舞いが観測された時に、初めて彼らに、それが波動か、あるいは粒子かという存在がもたらされたのです」と准教授は述べた。

この実験結果は、科学誌ネイチャーに掲載されている。




(訳者注)ここまです。本当に途中からは読んでもまったくわからなくてすみません(苦笑)。

要するに、後半に書かれてあることは、


原子は、観測された結果があった時に、はじめてその物質の特性が決まる

ということだと思います。

ということは、物質は「観測されるまでは特性がない(つまり、存在しない)」ということになることを、この実験は導いたようです。

しかし、今の社会(唯物論的な理論で構築されている社会)で、私たちはこのような見解を信じることは難しいです。

それが変換するためには、シュタイナーが「唯物論的な認識から精神的な人類へと進化しなければならない」と述べていたようなことや、あるいは、チジェフスキー博士が言うように(過去記事「私たちに残されたかすかな「破局の回避」の可能性のために…」)

「人間が精神圏へ移行する」

というような未来があったとする場合、私たちの宇宙への認識もまた変化して、その場合、それはもう想像も絶する素晴らしい宇宙が出現しそうな気もします。

自由な人間の認識に基づいた「変幻自在な宇宙」です。

そして、これが弥勒の世界というものかもしれないということにも気づきます。

ラベル:ネット社会
posted by megamiyama at 18:17| 兵庫 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | In Deep | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年05月14日

5.15 小惑星の接近!?  It's all Right !

「50年以上生きて、はじめて「老いることは悪くない」と思えたことに感謝したいと思います。」
と語る「In Deep」さん。

「明日、小惑星が地球に急接近」という “何が起こるかわからない、本当は恐い情報”と、「人間、いずれいつか死ぬ。」という“本当に怖い真実”(笑)と二つを見比べると、「どっちにしても、死ぬ時は死ぬ。何も恐れることはない。」ということに気づかされますが、人生の艱難辛苦も、病気も老いも、すべて、起こるべくして起こっている自然現象(これが“神の御業”)と考えれば、「悪いことなど一つもない」のかもしれません。

といっても、「死出への旅の夢を見て、喜ぶ人はなかりけり。」 (智慧の言葉「仏陀の悟り」より) も又、真実。

ジタバタと苦しんだり、喜んだり、悲しんだりしていくうちに、命と世界があることへの感謝が、自然と人間に生まれるような“仕掛け”になっているのでしょうね。

それにしても、これから、感謝も祈りも忘れ果てた現代人類に何が待ち受けているのか?
すでに、「終わりの始まり」のような不気味なことが世界中で起こり始めているので、ちょっと心配です。

なんで、よりによって今!? 恐るべし、小惑星!

「神様、仏様、人類を見捨てないで〜!」と云いたくなりますが、人間の側が、神仏を見捨て自分達の力で何とでもなると思った時、艱難辛苦が訪れることになっている気もします。

人知を超えた「宇宙の神仕組み」に対する畏怖なしに、人間が「神」に近づいていく道などあろうはずもないというのに、「神など居ない」あるいは「自分達の神だけが正しい」と主張して憚らない“愚かな人間”ばかりが、地球に蔓延っていくなら、“大掃除”されても文句は云えません。

明日、何かが起こるのでしょうか?起こらないのでしょうか?

すでに、今起こっていることの延長線に未来があるなら、今ちょっとだけ、一人一人が神様の気持ちになって考えてみるのも良いかも知れません。

日本人の「宗教嫌い」もいい加減にしないと、罰があたります。(宗教を嫌うということは、神仏を嫌うということですから)

最近の「InDeep」さんの記事、「来世」とか「死後」とかさらっと出てきて、良い感じデス


http://oka-jp.seesaa.net/

「老いることには意味がある」ことを考えつつも、5月15日に地球近くを通過する巨大小惑星1999 FN53 報道の「謎」も気になって

48時間後に通過する地球近傍小惑星 1999 FN53

今朝、英国のエクスプレスに、下のニュースが出ていました。
in Deep  5.15小惑星接近.gif

asteroid-1999-fn5.gif

▲ 2015年05月12日の英国 EXPRESS より。


物騒なタイトルですが、内容を読む限りでは、「 1999 FN53 」という数百メートル〜1キロメートルほどの大きさの小惑星が 5月14日(日本時間 5月15日)に地球に最接近するという内容です。

近いところを通過するといっても、距離を見ましたら、地球から 1000万キロメートル近くも距離があり、何か地球が影響を受けるという可能性はほとんどゼロだと思います。

しかし、上の記事を少し読んで、

「何かおかしいな」

と思うのでした。

というのも、私は毎日、地球に接近する軌道を持つ小惑星(地球近傍小惑星)の表をスペースウェザーで見ています。そこには、通過する軌道を持つ天体や小惑星がすべて表示されています。

しかし、スペースウェザーの表には、この 1999 FN53 という小惑星は出ていないのです。

2015年5月13日のスペースウェザーより
may-14-asteroid2 小惑星No.2.gif

・Spaceweather


英国エクスプレスは通常のメディアではありますが、娯楽要素が強い傾向がありますので、もしかして、エクスプレスのこの記事はジョーク記事のたぐい? とも思いましたが、NASA 小惑星レーダー・リサーチ( ASTEROID RADAR RESEARCH )には、1999 FN53のページが存在していて、そこには「最接近 2015年05月14日」と書かれていますので、エクスプレスの記事は確かに正しいようです。

下は NASA の該当ページです。

nasa-1999-fn53 小惑星 No.3.gif

・NASA

どうして、スペースウェザーはこれを載せなかったのかなあという点においては不思議な気もしますが、いずれにしましても、NASA のデータの最接近距離の計算が正しければ、先ほども書きましたが、地球への影響はまったくないです。

ちなみに、地球近傍天体の最接近距離は「 LD 」という単位を使い、これは 1LD が 月までの距離( 384,401 キロメートル)となりますので、今回の小惑星 1999 FN53 の最接近距離は、

26.5LD × 384,401 キロメートル=10,186,626キロメートル

となり、約 1000万キロという遠い場所を通過していく小惑星で、計算に間違いがないのなら、何の問題もないと思います。

とはいえ、このサイズのものが、いつの日か、地球に衝突するようなことがあれば、それはまあ確かに大惨事ではありますが。

以前、フレッド・ホイル博士の『生命はどこからきたか』にある「彗星の大きさとその衝撃」の表を載せたことがあります。

tnt-1-b1 小惑星接近の影響.jpg

・過去記事「良い時代と悪い時代」より。

今回の 1999 FN53 は上の表での 700メートルのものと近いサイズですが、このサイズですと、広島型原爆の5万倍の破壊力があるとしています。

このようなものはどこに落ちても大変でしょうが、特に、「海」に衝突すると、深刻なことになりそうで、たとえば、過去記事の、

・高さ1メートルの津波を起こすかもしれない西之島。そして、かつて高さ「100メートル」の津波を起こしたエル・イエロ島。さらには高さ「500メートル」の津波を起こす可能性のあるキラウエア火山
 2014年08月21日

で、今から 13万年前に、カナリア諸島の南西端にあるエル・イエロ島という海底火山の山体崩壊によって、高さ 90メートルの津波がかつて起きた可能性があるということなどを記しました。

地球は海の面積のほうが広いわけですから、大昔の地球でもあったように、衝突する時があれば、衝突する場所は海である可能性も高そうです。

まあ、それはともかく、なぜスペースウェザーが、小惑星 1999 FN53 の情報を載せなかったのかの謎は残ったままでした。

「うっかり記載ミスかな」とも思いましたが、スペースウェザーの記事を書いているのは、NASA の科学者であるトニー・フィリップス博士( Dr. Tony Phillips )という方で、うっかりミスは考えにくいです。

しかし、小惑星のことについては、気にしても仕方ないといえば仕方ないことですので、そういうことがあったことについてのご報告でした。


ところで、話は全然関係ないですが、最近になって

「老いることには意味がある」

ということに気づきはじめまして、今まで、年をとるのは一方的に良くないことだとして、「イヤだなあ」とか思っていたのですが、老いとはそういうものではないようです。



人間の老いというシステムの意味

昨日の、
ガン発生のメカニズムも、また人間に与えられた優れた機能」だということをほんの少しだけ書かせていただきます
2015年05月12日

という記事で、「ガンも自然良能」だということを書きましたけれど、「人間に与えられた機能に無駄なものはない」ということが、さらにはっきりと実感されるところです。

ということは、老いるというのは、ただ人が弱っていくことではなく、

「老いることには人間としての意味がある」

ということになりそうです。

ところで、昨日の記事の内容については、新潟大学名誉教授の安保徹さんと石原結實医師との対談本『安保徹×石原結實 体を温め免疫力を高めれば、病気は治る』がわかりやすいと思います。

2005年のもので、それほど新しいものではないですが、お二人の主張はこの頃から今に至るまで、まったく主軸がぶれていませんので、年代は関係ないと思います。

この本には、本当に、目からウロコやらウロボロスやらが落ちまくる(怖いわ)内容が随所で語られています。

さて、この「老いる意味」ということに関して、ちょっと視点を「精神科学」の方から見てみたいと思います。たとえば、シュタイナーの見解は、「老い」ということについて、またひとつ別の側面を見せてくれます。

『人間の四つの気質―日常生活のなかの精神科学』に収録されている 1907年のベルリンでの講演「人生設計」で、シュタイナーは、老年期について以下のように述べています。


1907年のシュタイナーのベルリンでの講演「人生設計」より


三十五歳から、人間はますます内面に引きこもります。もはや青年の期待、青年の憧れを持ってはいません。その代わりに、自分自身の判断を有しています。公的生活における力と感じられるものを持っているのです。エーテル体(生命体)に依存している力と能力、記憶がいかに衰え始めるかもわかります。

そして、およそ五十歳頃、物質原則も人間から退きます。骨が弱くなり、組織が緩んでくる年齢に入ります。物質原則はだんだんエーテル原則と結び付きます。

骨、血液、神経が行ったことが、独自の活動を発展させはじめます。人間はますます精神的になります。もちろん、以前の教育が正しくなされていることが、その条件です。

後半生になって、私たちは初めて未来に向かって活動します。人間が高齢になってから自分の内面に形成するものが、未来の器官と身体を形作ります。

内面に形成されたものは、その人の死後、宇宙にも寄与します。その成果は、来世における私たちの前半生において観察できるはずです。


ここに

> 後半生になって、私たちは初めて未来に向かって活動します。人間が高齢になってから自分の内面に形成するものが、未来の器官と身体を形作ります。

とあり、シュタイナーの主張する輪廻転生の観念では、

「高齢になって、はじめて人は次の世(来世)に向かっての活動を始める

ということらしいのですね。

あんまり関係ないかもしれませんけど、みんなではないでしょうが、若い時に、たとえば、性の問題なども含めて、いろいろな意味でギラギラしていた人でも、年を取れば、どんどんと欲も得もなくなっていくというのが普通ではないでしょうかね。

たとえば、ビートたけしさんは 68歳ですが、先日の芸能ニュースで、


「ここ半年、女性に興味がなくなった。40代は凄かった、最近は女性には興味ない。仲間と飲んでいる方がいい。もっと何十年前にそういう状態だったらもっといい仕事ができた」

というようなことを言っていたりしますが、私などもそうです。

ところが、

> もっと何十年前にそういう状態だったら

というのは、望んでもそうはならないのが人間でもあります。
これは、私自身を考えても、そういうように思います。

多くの高齢者は、次第に、いわゆる「仙人」のような心持ちになっていく。

仙人といえば、昨日の記事でご紹介した安保徹さんの講演会の中でも、「仙人」という言葉が使われていました。
mit-sen-nin 人生の最期は仙人.gif




上の図のように、人生の最期は「仙人」となっていますが、これは冗談ではなく、「解糖系」と「ミトコンドリア系」ということに関しての大変に難しい話の流れで、人間は年齢と共に、どんどんと食べなくてもいい体質(ミトコンドリア系)となっていくので、死ぬ直前の頃には「何も食べなくて生きられる時が来る」というようなことを、冗談を交えながら語られていました。

そして、シュタイナーによれば、人間の高齢期という時は、

> 未来の器官と身体を形作る

という時期でもあるようで、人間の最晩年というのは、物質的に仙人のようだったり、精神科学的には来世に足をかけていたりという、どうにも「霊的な存在」として死んでいくものなのかもしれません。


いろいろと悟ることが自然と出てくる老いの世界

少し前に、京都新聞の、

わらじ医者、がんと闘う 死の怖さ、最期まで聞いて
 京都新聞 2015.04.26

という記事を読む機会がありました。

テレビドラマのモデルにもなったことがあるという元医師で、91歳になる早川一光さんという方が、自身が血液がんの一種である多発性骨髄腫にかかり、「医師から患者へ」となったことに関しての話です。

早川さんは、抗がん剤治療を続けながら、在宅医療を受けているのだそう。

少し抜粋します。

「わらじ医者、がんと闘う 死の怖さ、最期まで聞いて」より

多くの人をみとり、老いや死について語ってきたはずだった。しかし、病に向き合うと一変、心が千々に乱れた。布団の中では最期の迎え方をあれこれ考えてしまい、眠れない。食欲が落ち、化学療法を続けるかで気持ちが揺れた。

「僕がこんなに弱い人間とは思わなかった」。

長年の友人である根津医師に嘆いた。

根津医師には時に患者としてのつらさを、時に医師の視点から治療への疑問を率直にぶつける。ある日、こう投げかけた。「治らないのに鎮痛剤で痛みを分からなくするのが今の医療か。本当の医療とは何や」。

根津医師が迷いのない口調で切り返す。

「在宅医療では痛みや苦しみを取ることしかできない。でも、それは生活を守ること。患者のつらさを少しでも和らげる。早川先生自身もやってきた医療ではないのですか」

診察のたびに繰り返される問答。いつしか早川さんはそこに、主治医のあるべき姿を見いだした。「10分でいいから患者の悩みを聞いてほしい。患者の最期までともに歩んでほしい」。患者になったからこそ、たどり着いた答えだった。


というような部分がありまして、まあ、昨日の記事などから、いろいろと思う部分はありますが、治療法についてはともかく、

「治らないのに鎮痛剤で痛みを分からなくするのが今の医療か」

と、かつての同僚でもある医師に言って、返される答えが、

「早川先生自身もやってきた医療ではないのですか」

であること。

医者の立場からも「自分たちがしている医療はガンに有効ではない」とわかっている。

この問答は、早川さんが元お医者さんだけに切ないものがありますが、しかし、上の記事では、最後のほうの下りに、


3月19日。診察が終わった後の客間で、早川さんは吹っ切れたようにつぶやいた。

「どうせ避けられないさんずの川や。上手な渡り方を勉強し、みんなに評価を問う。それが僕のこれからの道やないか」

とあり、ここにおいて、この方が一種の「悟りへの道」へと入っていっていることに気づかされます。

> 三途の川の上手な渡り方

というのは、過去記事、

・パッチ・アダムス医師の「楽しく人を死なせる」ための真実の医療の戦いの中に見えた「悪から善が生まれる」概念の具体性
 2015年04月19日

で書きましたパッチ・アダムス医師の考え方のひとつである「死ぬ人すべてに短くても楽しい生を」とも、おそらくは通じるところがあるわけですが、しかし、早川さんは「三途の川の上手な渡り方」と、諦観が先に立っていて、すでに「死だけを見ている」感じなのですが、そんなことはないと思うのです・・・。早川さんご自身が「西洋医学はガンに無効」だということを認識しているのなら、他の治療法に目を向けられることを祈っています。

何しろ、せっかく、早川さんが「患者の目線になることができた」ということは、「患者にとって最高の医者になれる可能性」が 91歳になって見えてきたということですから、生きるほうに目を向けて、お元気になっていただきたいです。

ところで、上の早川元医師は、91歳とご高齢ですが、安保徹さんの講演会で、安保さんは以下のように述べられています。


安保徹さんの講演会より

80歳、90歳台の人を解剖すれば、体の中に 5個や 10個のガンの組織が必ず見つかるんですね。お年寄りの人は、(ガンを)見つける必要も何もないんです。勢いがもうないから。

せいぜい、病院に行かないようにして、体を温めていればそれでいいわ。

早く見つけたほうがいいというのは真理なんですけど、やっぱり、今のように、治療が間違っている時は、見つけたほうが不利なんですね




年を取る、ということは、そのままでいれば、病気も拡大しにくかったりするわけで、生の勢いもなくなるけれど、対抗する病の勢いも弱くなる。

ところが、自然のままでいれば問題ないのに、今の高齢者の方々は薬漬けになっている人があまりにも多く、本来の人間身体の自然の機能がうまく働いていないと思うのです。

それどころか、薬による免疫低下や細胞機能の低下で、本来なるはずのなかった病気や、うつや認知症などをも発症させてしまう。

薬に頼らず、そのままの姿で生きていれば、もちろん苦しい症状などにも見舞われることがありますでしょうけれど、体の免疫は「死ぬ」まで自分たちの見方となってくれるはずです。

そして、最終的には、人は食べなくても生きられる「仙人」の状態で少しの間生きた後に死んでいき、その時の自我が、次の世に直接つながっていく・・・と考えると、穏やかに年をとり、弱っていって自然に死んでいくという「老いのシステム」はとても素晴らしいことなのかもしれません。

50年以上生きて、はじめて「老いることは悪くない」と思えたことに感謝したいと思います。
posted by megamiyama at 07:03| 兵庫 | Comment(0) | TrackBack(0) | In Deep | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年05月13日

ガン発生のメカニズムも、また人間に与えられた優れた機能?

「なんだかこう、いろいろとゴタゴタとするような感じのこともあったりなかったりで、まとまった記事を書く時間がとれません。」
とおっしゃる「IN Deep」さんと似たような状況ではありますが、10日も更新できなかった「花降る里」とは、エライ違い。
たった一日休んだだけで、例によって肯定的で温かみのある記事を更新されています。

目に止まったブログの応援が信条の「花降る里」も、地方選の応援や4年後を見据えての準備に明け暮れて(という程のことは何もしてませんが、パソコンや実家の屋根の修理や…、“いろいろとゴタゴタとするような感じのこともあったりなかったり”)居る間に、特筆すべき日本と世界の一大事(酷い“余震”?まで起きた!ネパールの大震災!、そこら中の山が活動を開始した気配の日本列島とすでに噴火して大量の噴煙をまき散らしている世界の火山の世紀末的様相!、謝罪の言葉こそ口にしなかったもののアメリカで「河野・村山談話を引き継ぐ」と云ってしまった安倍首相がどんな「安倍談話」を打ち出せるというのか!?という戦後日本が抱える歴史的課題!、沖縄の知事の度し難い“強硬な物言いと態度”!(こうやって挙げていくと際限がありません…)とにかく、次から次に危機的状況が立ち現われてくる昨今です。

5月に入ってお婿さんに譲ってもらったパソコンは、見違えるようにサクサク文字が打てるようになりましたので、地方選が終わって勝手に一段落していると、バチがあたります。

というわけで、「IN Deep」さんの記事、あと先になりましたが、昨日アップする予定だったので、そのまま
にさせて頂きます。

画像は、時間の都合でまた後ほど!

2015年05月12日


「ガン発生のメカニズムも、また人間に与えられた優れた機能」だということをほんの少しだけ書かせていただきます




時間や太陽や病気



いろいろと重なる時は重なるものですが、そんなこともあり、昨日は更新できませんでしたが、今日も短い記事になるかもしれません

体調やメンタルのほうも、なんだかんだといろいろあったりなかったりなんですが(どっちだよ)、まあ、この心身面に関しては、太陽の黒点状況がものすごいことになっていて、ついに 188個にまで増加したという状況になっています。

ss2015-05-12.gif
・Spaceweather


上の数字が重なっている黒点活動領域 2339というのは、かなり大きな黒点群となっていて、それぞれの活動領域が、地球の大きさを上回っています。

ar2339.jpg
・Spaceweather

それに加えて、大きなコロナホールとよばれる領域が通過していて、地球の地磁気も多少乱れていまして、体調や、メンタルも、なんとなく不安定になりやすい状態かもしれないですね。

ところで、最近、

「ガンもまた、人間に備えられた優れた仕組みである」

というようなことを知り得ました。




ガンもまた自然良能だった

以前、

・人間にとって最も日常的で慈悲深い治療者は「風邪ウイルス」かもしれないこと。そして、薬漬け幼児だった私がその後の十数年経験した「免疫回復戦争」の地獄体験記
 2015年04月21日

という記事で、「風邪は体を治すためにかかる」ということを知り得たことを記したことがありますが、今度は「ガン」です。

このことは、なかなか複雑な話でもありまして、またいずれ、きちんとした形でも書きたいと思いますが、新潟大学医学部の名誉教授であり、日本自律神経免疫治療研究会の理事長の安保徹さんいう方が述べられていたものです。

キッカケは、偶然 YouTube で、安保さんの講演会を短くまとめたものを目にしたのです。
その中に、以下の文字がスクリーンに映し出されていたのですね。

ガンの仕組.png


ここには、


発がんは不利な内部状態を克服する解糖系への適応応答である

とあり、つまり、安保さんは、ガンは体を守る反応だと言っているのでした。

もう少し正確に書きますと、「ガンは遺伝子の失敗ではなく、人間が過酷な内部環境に適応するための現象」とおっしゃっています。

ちなみに、この安保名誉教授は、サイトのプロフィールにあります通り、過去において、「ヒトNK細胞抗原CD57に関するモノクローナル抗体」というものを作製したり、「胸腺外分化T細胞を発見」したりといった、よくはわからないですが、超エリート医師で、英文論文も 200以上発表している方です。

そして、研究の中で、次第に、


白血球の自律神経支配のメカニズム

というものを解明していき、少しずつ「病気と免疫の関係」を明らかにしていく中で、どうやら、「ある日、悟っちゃった」みたいなんですね。

講演会の中で、

「夜中、15分くらいの間に、ガンのできる仕組みが全部わかっちゃたんです」

というようなことを言われています。

ちなみに、この超エリート医学者である安保名誉教授の現在の、「最善のガンの治療法」というのは、

・病院に行かない
・体を温める(体温を上げる)

と、これだけでした。

また、早期発見の重要性について、早期発見はいいかもしれないけれど、現代のガン医療の治療法そのものが間違っているので、早く見つけないほうがいいとしています。

ところで、私が、この安保名誉教授をとても好きになったのは、講演会でのしゃべり方なんですね。下が私の見た講演会の光景です。




安保さんは青森出身だそうですが、その青森弁を丸出しにして、ゆっくりと話し、また、各所に脱力した笑いを散りばめていまして、話を聞いているだけでも、ストレスがやわらぐような方です。

とにかく「緊張感がまったくない人」なのです。

緊張感のない人が好きなんですよね。
私も緊張感がないので。

こういう方から、

「ガンになったら、病院には行かないで、体を温めていればいいわ」

と青森弁で言われると、「ガンってそんなもんか」と、妙な安心感が与えられるのでありました。

この「人に安心感を与えられる資質」というのは、治療者として大切なことだとも思います。

でも、その講演の内容には、


人類にとって生殖の意味は、20億年前の生命の歴史をやり直している。

というような、難しい話も含まれていまして、うまく説明できないのですが、とてもいい話が後半に多く語られています。10分過ぎからの後半5分間あたりの内容は、単なる医学演説にはとどまらず、「人類とは何か」ということにも踏み込んでいるようなものです。

ちなみに、ガンに対して、(西洋医学の)病院には行かないほうが良くても、「何もしない方がいい」とは言っていません。

安保さんが理事長をつとめる日本自律神経免疫治療研究会に所属する医師たちの治療は、「原則として薬を使わない」となっていて、その方向性は、日本や中国の東洋医学などの概念で免疫を上げるということに主眼が置かれているようです。

抗がん剤や、あるいは他のさまざまな薬剤が免疫を落とすことは、こちらのリンクににあります、「薬」に関しての過去記事などで最近書くことがありましたが、抗がん剤を含めて、薬は人間の免疫を落とす作用があるわけで、人間の自然治癒力を著しく削ぐものだと思われます。

多くのガン患者が抗がん剤で助からない原因は、人間の免疫システムを考えてみれば、当たり前のことなのかもしれません。

日本のガンの死者数の増加が止まらないのも、「早期発見」にも関係があるかもしれません。早期に見つけられて間違った治療(三大療法など)を受けることで、本来なら簡単に治るはずのガンに対抗する免疫力を、患者が失ってしまうというメカニズムで理解できます。

それにしても、今回の「ガンも人間が持つ病気を治すシステム」だということを知って、人間の持つ免疫能力の優秀さをさらに知ります。

人間の身体には無駄な機能はひとつもない、とは以前から思っていたわけですが、まさか「ガンまでも」と思うと、感慨深いものがあります。

同時に、現代医学の本質的な問題も再び浮かび上がります。

現代医学は、病気と症状を、「すべて悪いものとして排除する方向」だけで進んできたわけですが、野口晴哉さんやナイチンゲール(過去記事)が言うように、

「病気とは回復過程なので、自然による回復過程の邪魔をしないことが大事」

という原則の「反対」を、現代医学は進んできたといえます。

紀元前5世紀のギリシャの医師のヒポクラテスも同じことを言っていました。こちらのサイトには、ヒポクラテスの言葉として、




古代ギリシャの医学祖『ヒポクラテス』の言葉に、治療においては『人間は自ら治す力をもっている。真の医療とは自然治癒力を発揮させることであり、医者はこの自然治癒力が十分発揮される条件を覚えるだけである。』と言っています。



というものが紹介されています。

2500年前にはすでにあった医学的見識が、2500年かけて「後退してしまった」のかもしれません。そして、私たちの医療概念は、再び 2500年前へと進化しなければならないところまで来ているような気がします。

というわけで、中途半端な記事となってしまいましたが、今回のことはぜひ書きたいと思ってましたので、書かせていただきました。
posted by megamiyama at 22:38| 兵庫 | Comment(0) | TrackBack(0) | In Deep | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする